博多から沸き起こった音楽ムーブメント【めんたいロック】って何?
“めんたいロック”と聞いてあなたは何を思い浮かべますか?
1970~80年代、福岡の『親不孝通り』を中心に、フォークやポップという音楽の一大ムーブメントが起こりました。
その中から台頭したのが、後に“めんたいロック”と呼ばれる博多のロック・シーンです。
キャッチーなメロディーを早いビートで刻み、エッジの効いた歌詞をのせたサウンドは、多くの若者の魂を熱く揺さぶりました。
当時を博多で過ごした世代にとって“めんたいロック”とは、何か熱いものが胸にこみ上げてくるような、特別な響きを持っているかもしれません。
逆に“めんたいロック”って何?という若い世代でも、曲を聴けば「知ってる!」と思うでしょう。
陣内孝則、鮎川誠、石橋凌…今も現役でバリバリ活躍しているアーティストも数多くいます。
今回は、そんな“めんたいロック”について、ロック・シーンに詳しい“昭和40年代男”さんに語っていただきました。
北九州市在住。幼い頃より洋楽をはじめとする様々な音楽を聴き、高校生から本格的にバンド活動を開始。卒業後は上京して働きながらストリートライブなどを行い音楽活動を続ける。しかし同時期にライブを行っていたジュン・スカイ・ウォーカーズに衝撃を受け、音楽で生きていく道を断念。その後は趣味としての音楽活動を継続中。2,000枚以上のCD・DVDを収集。特に好きなアーティストはデビッド・ボウイ、忌野清志郎、憂歌団など。今一番欲しいギターはフェンダー・エスクワイヤー 。
- 福岡で音楽ムーブメントが起こったきっかけは?
1970年、福岡市の天神にオープンした『照和』というライブ&喫茶がルーツじゃないでしょうか。
当時、長浜公園や舞鶴公園に集まって好き勝手に歌っていた若者たちを“音楽によって更生させたい”と思ったオーナーさんが作ったお店だと聞いています。
チューリップ、海援隊、井上陽水、甲斐バンド、長渕剛など多くのスターが照和から誕生しました。
1970年の初め頃は、日本全体が空前のフォークブームでした。
なので福岡でも音楽を志す若者たちは、こぞって照和のステージで歌うことを目標としていたそうです。
そんな若者たちの中にいたのが、ロックバンド『サンハウス』です。
この『サンハウス』が、いわゆる“めんたいロック”の始祖と言われていますね。
- 『サンハウス』が“めんたいロック”の始祖?
『サンハウス』は、福岡市出身の柴山俊之と久留米市出身の鮎川誠がメインとなり1970年に結成したバンドです。
照和から博多区洲崎にオープンしたロック喫茶『ぱわぁはうす』にホームグラウンドを移し、1975年にメジャーデビュー。
フォーク全盛時代に反逆の狼煙をあげ、ブルースロックを中心に活動します。
当時のバンドと言えば、「ハコバン」というライブハウス専属のバンドが主流でしたが、サンハウスは「自分たちのブルースを追求する」ことを標榜し、オリジナルの日本語ロックを演奏するバンドとして注目を集めました。
特にボーカルの菊さん(柴山俊之)は、暗いライブハウスでも目立つように、長髪で派手な衣装と奇抜なメイクという出で立ちでしたから。
サンハウスの1stアルバム『有頂天』は、“ブルースロック”という言葉すら知らない若者にも大きな衝撃を与えたと思います。
スリーコードのしみったれた単調な音楽(ブルース)に、ドラムとエレキギターでビートをつけ、音全体に厚みをつけてグルーブ感を演出したんです。
また、歌詞がフォークソングとは全く違いました。
『神田川』のような、いわゆる“四畳半フォーク”が流行る中、柴山俊之は、男女の恋愛をもっと過激に表現してさらに社会的なメッセージを加えました。
《しぼって 僕のレモンを/あなたの 好きなだけ/たっぷり 僕のレモンを/あなたの紅茶の中に》
《いまにも はちきれそうに/熟した 僕のレモン/一滴も こぼさず/あなたの紅茶の中に》
(M5「レモンティー」)。
それは社会全体には受け入れられなかったけど、一部の熱狂的なファンを獲得していったんですね。
当時音楽をやっていた人たちは、まず海外のミュージシャンに憧れてバンドを組み、オーディションを受けて上京するというパターンが主流でした。
でも福岡に限っては、サンハウスの影響でバンドを始める若者が多く、ずっと福岡で活動し続けていたんです。
これが後の“めんたいロック”に繋がっていったと言われていますね。
何をもって“めんたいロック”とするかには諸説あって、福岡市・北九州市・久留米市でもスタイルが異なることからいろいろと議論があるようですが、めんたいロックの始祖は『サンハウス』であるという認識には異論がないのではないでしょうか。
- “めんたいロック”と言われるのはどんなバンド?
『80’s FACTORY』というライブハウスで人気だったバンドがメインでしょうね。
100人以上が収容でき、楽屋や音響設備が揃った本格的なライブハウスで、多くのロックバンドが連日熱いライブを繰り広げていました。
音楽的な特徴としては、サンハウスの柴山俊之の影響を受け、さらにパンクロックの早いビートをプラスしたこと。
3分に満たない短い曲にキャッチーなメロディー、強烈な個性あふれるサウンドが、当時の若者たちにとってはたまらない刺激でした。
わずか2年半という短い営業期間ながら、ザ・ルースターズ、ロッカーズ、シーナ&ロケッツ、THE MODS、ARBなどがこのライブハウスからメジャーデビューを果たしたんです。
“めんたいロック”を代表するバンドといえば、彼らのことを指していると思います。
- それぞれのバンドについて教えてください。
ザ・ルースターズ
メンバー全員が北九州出身で、結成は1979年です。
1980年にシングル『ロージー/恋をしようよ』でメジャーデビューしました。
コニー・フランシスとかボ・デッドリー、エディ・コクラン、チャック・ベリー、ローリングストーンズなど50~60年代のアメリカンロックやUKロックを自分たち流にアレンジして80年代に持ってきたバンドです。
めんたいロックの中でも、北九州はロカビリーの街と言われてるように硬派なイメージが強いです。
ぶっきらぼうで男臭く、媚を売らないから女性よりも男性人気が高いバンドですね。
またザ・ルースターズといえば、オリジナルに独自のビートを取り入れたカヴァーのセンスも素晴らしい。
エディ・コクランの『C’MON EVERYBODY』やコニー・フランシスの『カラーに口紅』、ザ・ローリング・ストーンズの『come on』など、ぜひザ・ルースターズのカヴァーと聴き比べてほしいです。
ティーンのストレートな感情を歌い上げる大江慎也の甲高くかすれた声、高速カッティングでかき鳴らす花田裕之のギター、パンキッシュでグルーヴィーな井上富雄のベース、力強く多彩なビートを刻み続ける池畑潤二のドラム…今聴いてもやっぱりすごくカッコいい。
ミッシェル・ガン・エレファントをはじめ、多くのアーティストがザ・ルースターズに影響を受けています。
私自身も、もう廃盤となったCDを何枚か持っていて時々聴いています。
ザ・ロッカーズ
ザ・ロッカーズは、1976年に陣内孝則が中心となり結成。
1979年に福岡のアマチュアバンド向けのコンテストで優勝し、翌1980年にアルバム『WHO TH eROCKERS』でメジャーデビューしました。このアルバムは千葉県のお寺で録音されたもので制作時間は3時間、全て一発録りという迫力のライブレコーディングを見事に成功させています。
とにかく演奏に勢いがあって、谷信雄がかき鳴らすギターの刻み方で一気に駆け抜ける。フル演奏でも3分かからないそのスピードは“日本最高速のバンド”と言われたほどです。
もちろんスピードもテクニックも今のバンドの方が全然上だし、速さだけで言えばザ・ルースターズも負けず劣らず速いけど、なんというか魅力的なバンドですね。
ロマンティックな歌詞が多く、スピーディでシャープなサウンドとグラマラスでセクシーなルックス…どちらかというと男臭いハードなバンドが多い中で、ダントツで女性ファンが多いバンドでした。
陣内孝則のキャラの影響もありますが、陽気で明るいバンドというイメージです。
陣内孝則自ら監督をつとめた映画『ROCKERS』を見ると、当時の福岡のロックシーンがよくわかります。
“めんたいロック”と称される曲がふんだんに流れていますので興味がある方は参考にしてみるとよいと思います。
シーナ&ロケッツ
1978年、『サンハウス』のギタリストだった鮎川誠が妻のシーナとともに『シーナ&ロケッツ』を結成、同年『涙のハイウェイ』でデビューしました。
バンド名の由来は「ロック」とシーナの本名の「悦子」を合体させたもの(=ロケッツ)だそうです。
1980年、YMOの高橋幸宏、細野晴臣の協力を得てアルバム『真空パック』を作成。
『真空パック』はロックと最新のテクノが融合した、それまでまだ誰も聞いたことがない新しい音楽となり、収録曲の『ユー・メイ・ドリーム』がJALのCMに起用されブレイクを果たします。
『ユー・メイ・ドリーム』は、NHK連続テレビ小説「半分、青い。」の劇中歌として話題になりましたね。
シナロケの魅力は何と言ってもシーナのコケティッシュでパワフルなボーカルと、鮎川誠のダイナミックなギターサウンド。
女性のロックボーカリストが少なかった時代に旋風を巻き起こしました。
残念ながら2015年にシーナが急逝してしまいますが、その後も鮎川誠はシーナの遺志を継いで「シーナ&ロケッツ」を続行。
鮎川誠がボーカル・ギターを担い、全国で勢力的にライブ活動を展開しています。
1970年代の福岡・北九州を主な舞台に、メジャーへと羽ばたく二人の青春時代は、『YOU MAY DREAM』(NHK福岡放送局制作)というドラマにもなりました。
おふたりの人柄や生き様がよく描かれていると思います。
THE MODS
ブリティッシュビートバンドに衝撃を受けた森山達也が1973年に前進となるバンド『開戦前夜』を結成。
1976年から現メンバーでもある北里光一と共に『THE MODS』としての活動をスタートさせました。
当時のパンクムーブメントに強く刺激を受け、博多を拠点に精力的なライブ活動を展開する中で人気に火が着きます。
博多のパンクロックの先駆者ですね。媚を売らない姿勢が男から見てもカッコいい。憧れの存在です。
1980年、上京のため『80’s FACTORY』で開催された2日間のラストライブでは、お店の最高動員記録を樹立するほど多くのファンがいました。
1981年、アルバム『FIGHT OR FLIGHT』でメジャーデビュー。
リーゼントに革ジャンというロカビリースタイルでありながら、パンキッシュなビートで曲作りの上手さでは群を抜き、ファンのみならず多くの若いアーティスト達に多大な影響を与えてきました。
デビュー翌年、壮絶な豪雨の中でも誰一人観客が帰らなかったライブ“モッズの野音”は今も伝説として語り継がれています。
そして今年はなんとデビュー40周年。日本で最も息の長いロックバンドのひとつとして、毎年あらたな作品を発表しライブを行い、今も現役バリバリで活躍しています。
これからもずっと激しくてカッコいい音楽を作り続けてほしいですね。
ARB
久留米市出身の石橋凌がヴォーカルオーディションに採用されたことで、メンバー5人が揃いARBを結成。
当初、所属事務所はARBをベイ・シティ・ローラーズのようなアイドルグループとして売り出そうとしていました。
しかしそれに反発し事務所から独立、メッセージソングをロックビートに載せた社会派ロックバンドへの道を走り始めます。
1980年代に入るとめんたいロックの第二世代として注目を浴びました。
彼らの労働者をテーマにした多くの歌は“WORK SONG”と呼ばれ、ARBの代名詞の一つとなっています。
私自身も高校2年生のときに初めてARBのライブを見て衝撃を受けた記憶があります。
80年代後半、男女の恋愛を歌った歌ばかりが溢れている中、鍵っ子、核家族化、家族の希薄性など社会への警鐘をビートに乗せて歌っているバンドが日本にあったのかと思いました。
また、ストイックな社会派バンドというイメージが強いARBですが、メロディアスでキャッチーなラブソングも意外と多く、タイトで疾走感のあるR&Rからソウル、ツイスト、ジャジーなナンバーまで多彩なバンドアレンジでも定評がありました。
1990年に石橋凌が俳優業に専念するため解散、1998の復活から2006年の活動停止までメンバーチェンジを繰り返しながら数多くの名曲を残しました。
- “めんたいロック”を一言でいうと?
“めんたいロック”バンド全体に共通して言えることですが、コードやメロディは本当にシンプルなんです。
簡単だから真似して演ってみるんですけど、全然違う。何が違うのかわからない。
他の有名なバンドは、メンバー個々のスキルを磨けばコピーできるのに、“めんたいロック”バンドは真似できないんですよね。
彼らにしかできない音楽、それこそが“めんたいロック”の魂ではないでしょうか。
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