MUSIC BAR JAM

【連載コラム】 音を味わい、グラスを傾け、風を感じる街/現在進行形の親不孝通り #001 『MUSIC BAR JAM』

福岡のまち

はじめに

あの頃の親不孝通りは活気があった・・・

いまではそのように、過去形で語られることが多い親不孝通り。

1970年代から80年代にかけて、独自の文化が出現した親不孝通りの現在(いま)を歩き、そこで出会った人たちのストーリーをレポートする。

今回目指す『MUSIC BAR JAM』は、親不孝通りに面したWAVAビル。1階に居酒屋『晴れたり曇ったり』があるビルの3階にある。

エレベーターホールから伸びた通路の左右に店舗の扉が連なる。

『MUSIC BAR JAM』は、その一番奥に位置し、その扉を開けると、五感を刺激するJAZZの世界が広がっている。

親不孝通りは “青春の街”

MUSIC BAR JAM』は、昨年11月末にオープン。

今回は、店を切り盛りする店長の安達光子さんにお話を伺った。

カメラを向けると粋なポーズ。陽気で気さくなお店のムードメーカーでもある。

独身時代は、仕事帰りにカラオケやディスコを楽しみ、子育てを終えてからは、ライブ演奏やアーティストとの交流に魅了されたという安達さん。

かつて訪れていた『ダンデライオン』『ラジオシティ』『マリアクラブ』『ケントス』といった店の様子を振り返りながら、「親不孝通りは昔も今も、私が青春を感じられる場所」と語ってくれた。

80年代の親不孝通り

80年代の親不孝通りは、まさに “音楽の街” だった。

当時の大名や天神西通りは洋服や雑貨を売る店が中心。中洲は高価なイメージで、必然的に足は親不孝通りに向かった。

学生や仕事帰りのサラリーマン、実業家、ミュージシャン、アーティストが趣味嗜好にあった店に集い、とくに金曜日は “花金” という表現がぴったりの賑わいようだった。

ライブハウスが30~40店はあったとされ、これほど密集しているエリアは全国的にも珍しかった。また、音楽好きの旅行者が、ホテルにチェックインしたあと、迷わず目指す場所でもあった。

親不孝通りは、情報の宝庫だった。当時はネットもスマホもなく、自分の欲しい情報は自分で見つけるしかなかった。

そして、親不孝通りは、出会いの場でもあった。長浜公園でナンパが公然と行われ、公園の周りを男性が運転する車が回遊し、道行く女性をドライブデートに誘う光景が見られた。

雑然としていて雑多感があり、喧嘩なども日常茶飯事。そのうち長浜公園に交番ができて、同時期に街から客足が引いていったーーー

安達さんはそうした歴史を経てきた親不孝通りの現在と未来について、こう語ってくれた。

「昨年くらいから内部をリニューアルするビルが出てきて、うちと同じように新規開店する店も増えています。かつてのように大人が粋に遊ぶ場所、音楽と人との交わりが強い街に再生してくれたらとても嬉しいですし、私も微力ながらその一助になれればと思っています。」

『MUSIC BAR JAM』の魅力

1.パラゴン

この店の中央に鎮座するのは、JBL社を代表するスピーカーシステム「パラゴン」。

現役のドラマーであり、古物商でもあるこの店のオーナーが大牟田市在住のジャズ愛好家から譲り受けた希少な一台で、上質な重低音が体の芯まで響いてくる。

2.アンティーク

店内の至る所に、古物商のオーナーが仕入れてきたアンティークの数々が散りばめられている。

その一つ一つを眺めるのもまた面白い。

3.フード&ドリンクメニュー

また、安達さんが手がけるフードとドリンクは、懐かしさと新しさが融合したものばかり。

メニューを片手に、嬉しくも悩ましい、思案の時間をしばし過ごす。

この日は、一番人気という「マイルスドッグ」をオーダー。

「食べる姿がトランペットを吹くのに似ているから」という理由で、オーナーが命名したそうだ。

マスタードをたっぷりつけてかぶりつくと、あらびきソーセージの風味とパンの香ばしさが口の中一杯に広がるボリューミーな一品。

ペアリングには「サンセットソーダ」。

“ 夏の日の夕焼けをイメージ” したという鮮やかな色合いと、ベリー&ゼリーの食感が、楽しく弾ける一杯。

那珂川市『猫屋カフェ』の自家焙煎豆を使った香り高いコーヒーを味わっていると、店内にはJAZZの生音が響き始めた。

一曲目は、「Fly me to the Moon」。

その印象的なイントロとともに、私は、親不孝通りから月への飛行旅行に引き込まれていった。

この記事を書いた人